充実した生活を送るために、いろいろ研究していたのだが、ふと思った。
(生活は充実していなければならないのか?)
私は毎日を充実させようと、躍起になっていた。
朝、自分にとって大事なことリストを眺めては、今日のテーマを作り、それに沿ったアクティビティを考えて一日を過ごす。
確かに有意義に過ごせる確率は高くなったが、なんだか無理をして自分に充実した生活を強いているような気がして、疲れてしまった。
そこで、あるチベット仏教僧が言っていた「良いとか悪いとか判断するのではなく、物事をありのまま受け止める」を実践してみることにした。
この考えで行くと、一日が充実していればOKだし、充実していなくてもOK。いや、充実している、していないという判断すらせずに、ただ自分の一日を送るだけ。自然に送られた一日と共にいるだけといった感じだ。
一日の充実感のみならず、自分自身に対しても適用できるのではないか。「こんな自分じゃダメ!」などと思わずに、そのままの自分とともにいるだけ。
この考え方で約1週間過ごしてみたが、さまざまな発見があった。
まず「生活が充実していても、していなくてもOK」という考え方は「充実した生活を送らなければならない」という考え方から解放されて、楽になれた。
「あぁ、もう充実させなくてもいいのね」ということで、今週、ほとんど自宅に引きこもって、本を読んだり、ネットで調べ物をしたりして、自分のやりたいことを罪悪感なくできた。
特にやることがなくなると「あぁ、やることがなくなったわ」と、やることがなくなったことを受け入れる。「何しようかねぇ」「ボーっとしとくか」という自分を受け入れる。無理にやることを探したり、外に出て気分転換させようとしたりしない。
今までなら手持ち無沙汰になると「何かしないと!」という焦りが生じた。しかし、手持ち無沙汰の状態を良いとか悪いとか判断せずに、ただ「手持ち無沙汰である」と認識して、そのまま受け入れると焦らなくなった。焦りは、自分にとって何か悪い状態になると引き起こされる感情であるため、良いとか悪いとかいう判断基準がなくなってしまうと、発生しなくなるようだ。
一方、ありのままの自分を受け入れ続けた弊害もある。
「あぁ、私、運動したくないのね。じゃあ、運動したくない自分とともにいよう」
「甘い物を食べたい自分を受け入れよう(モグモグ)」
「何もやりたくない?やらなくてもよし」
その結果、1kg太ってしまった。
ゴムが伸びてだら~んとした状態になり、生活にハリがなくなった。
私がしていたことは、ありのままを受け入れるというよりも、単に自分を甘やかしただけでは?やはり、ある程度、自分をムチで打たないと、自堕落な生活に一直線だ。
お坊さんの動画をもう一度よく観ると、こう言っていた。
「肩に力が入りすぎても、緩みすぎてもいけません。バランスが大事です。ミドルウェイ(中間)を見つけてください」
う~ん、自分にとってのミドルウェイはどこなのだろう。
とりあえず、自分にムチを打って1kg痩せないと・・・。