わたしはわたし👞

~国内外を転々としながら楽しい生活をめざして奮闘中~

自分がいるべき場所はここなのか

服、靴、カバン、化粧品、宝石、飲食店。さまざまな店が立ち並ぶ神戸の商店街を歩いていると、ふとインドの大自然が恋しくなってしまった。

去年11月、インドのダラムサラへ行った時に親しくなったタクシードライバーのラジさんが、友人の結婚式や家族、薪を割っている人の様子など、インド生活の写真や動画を定期的に送ってくれるおかげで、頭の中に常にインドの灯がともっているからかもしれない。

大自然に囲まれながら、素朴に暮らしているインド人を思い浮かべて「あぁ、なんだか羨ましいな」と思った。日本に比べれば、そりゃあ生活は不便極まりないだろうが、あんな壮大な自然が身近にあるなんて。

ダラムサラのダウラダール山脈

我に返り、意識をインドから神戸に戻す。すると、ふと疑問がわいた。

(自分が本当にいるべき場所は、果たしてここなのか?)

私は生活に便利なように、都会に近い地方都市にいつも暮らしてきた。けれど、海外をひとり旅するときは、無意識に新興国の田舎を選ぶことが多い。そして、何をするでもなく、自然の中でぼんやりしていることが多々あるのだ。海の側で育ったので、今までずっと、地方都市の海辺に住むことが快適だと信じて疑わなかったが、実はもっと緑豊かな田舎で暮らした方が幸せだったりして。さらには、海外の田舎暮らしが性に合っていたりする?

昔、ブータンへ行った時に、こんな美しい田舎で、暮らすこと自体を楽しんでみたいなぁと思ったことがあった。キャリアがどうだとか、自分の人生の目的は何なのかとか、ややこしいことを考えずに、毎日ただ生きるために必要なことをするだけ。

朝起きてから、水を川に汲みに行ったり、ごはんを作ったり、川で洗濯をしたり、畑や家畜の世話をしたりしているうちに日が暮れて、夕食を食べた後は寝るだけ。ブータンに限らず、インドやネパールなど田舎の暮らしは、決して楽ではないだろうが、シンプルそうに見えた。

私が日本でしている生活は、機械化の恩恵をたっぷり受けていて便利だが、なんだか複雑化している。炊事洗濯などは自動化されて断然楽なはずなのに、私はあまり幸せではなく、いつも焦っていた。

ただ単に生きているだけではだめで、活躍して社会の役に立たなければ。アンチエイジングやダイエットに勤しんで、まともな服装をして、きれいに化粧をして、常に美しくあらなければ。もっとお金を稼がなければ。もっと価値のある自分にならなければ・・・。なんだか人生の目的が、ブータンやインド、ネパールの田舎のように「ただ生きるだけ」だと許されないような気がするのは私だけか。

ブータンのお寺です

もちろん生きて行くために働くことは必要不可欠である。ただ、あまり多くを求めずに、自然の中で素朴に気分よく生きている方が、都会であれこれといろんな欲望に振り回されるよりも、思い煩うことが少なくて幸せなのではないか。最近、そんなふうに思うことがある。

たとえばインドの田舎で暮らしたら、私はどんなふうに感じるのだろうか。今あるものに感謝をして気分よく暮らせるだろうか。それとも文明の発展した煌びやかな生活が恋しくなるのだろうか。

神様がもしそんな機会をくれたら、ぜひ試してみたい。